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受容的な態度で2

クラスに問題を起こす子どもがいたとする。
クラスの雰囲気を壊し、教師に反抗し、当番はサボる。

さて、このようなとき教師はどうすればよいのだろうか。

「いけないことはいけないことで、それを容認することはできない。」

確かにそのとおりである。
しかし、その前にすることがあるのではないだろうか。

問題を起こす子どもがいると、教師はその生徒の問題行動を正そうとする。
確かにそれは正しいのであるが、その前にすることがある。

人間関係ができているかどうかである。
できていなければ、いきなり否定するしかなくなる。
それも、行動を否定するならまだしも、へたをすると、本人を否定するようなことになりかねない。
そうなってしまったら、問題は泥沼化してしまう。
気がつけば、子供たちをほったらかしで、会議ばかりしている。
生徒と関わり合わなければならない時間すら割いて、会議をしている。
これは何か変だ。
そう思わないだろうか。

もう一つ、クラスのその他の子どもたちである。
大半は、まじめによく頑張っている。
にも関わらず、問題のある子どもにだけかかり切りになり、
本当は一番に「よく頑張っているね。」と
声をかけなければいけない子どもたちが、
何の言葉もかけられず、ただそのままになってしまう。
これは何か変だ。
そうは思わないだろうか。

やはり、人間関係づくりである。
教師と子ども、子ども同士、教師同士の人間関係づくりである。
その根底にあるものは、やはり「信頼関係」ではないだろうか。
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受容的な態度で

受容的な態度で、子供たちと関わり合う。

言葉でいえば簡単であるが、なかなか現場でそのような態度をとる教師に出会わない。

私についてきなさい。
そうすれば、間違いなく素晴らしい集団が作れる。
これは、君臨型の集団マネージメントである。
これが上手くいったように見えることが結構見られる。

しかし、これでは集団は育たない。
個々は、カリスマ教師との人間関係をうまく作ることにだけ専念している。
従って、子ども同士の人間関係は育たない。
カリスマがいなくなると、うまくいっていた集団が、がらがらと崩れ、
単なる、利己主義の塊と化してしまう。

逆に、受容的に子どもと関わり合いながら、
集団の中で、個がどう生活していくかを支援していくという立場をとる限り、
集団は間違いなく育つ。
そして、個々がつながり、その集団が個によい影響を生み出すようになる。

その理論と手法を学んだのは、教育心理学の講義の中であった。
教師として生活し始めてから、この態度は守り続けてきた。

「そんな甘い事じゃ、クラスがメチャクチャになるだろう!」
「理想は理想、現実問題として、そんなことできるわけ無いだろう!」
「どこでそんな間違いを学んだのか!」

様々なことを言われたこともあった。
しかし、今確実に、この受容的な態度が正しかったかを痛感している。
あきらめなくてよかったと実感している。

教師は、「私は教師である」というつまらないプライドを捨て、
子どもと心を開いて向き合うことだ。
そこにしか、信頼関係は生まれない。
(続く)
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