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先生が先にしていませんか

自主性という言葉をよく聞く

生まれつき備わってはいない

しかしながら
教えることではない

学ばせることでもない

育てることだ

ここまではみなさんうなづくはずである
大切なのはその次である

子供にどれくらい委ねるか
ここが重要である

そうは言ってもうまくいかないし

確かにその通り
だが、全てが成功という必要があるのか
失敗したらもうだめなのか

失敗したら、次にどうするか考えればよい

全てを指示して子供にさせても
子供は何も学ばない
何も育たない
毎回細かい指示を出さないと動けない子どもたちが
いつまで経っても減らない

マニュアル通りは確実であるが
思考を伴わないので
何も育たない

即ち自主性は育たない

ではどうすればよいのか

掃除を例に考えよう
時間になって生徒が集まる
そこで教師がどのような指示を出すか
毎回誰がどこをするのか決めてはいないか
これは間違いである
教師がいないと何もできない

順番を決めるのもよく使われる
これすらよくない

何もかも順番で融通がきかない
気遣う心が育たない

誰、ここをするのは!
と言っても無駄
結局犯人を探して吊し上げ

いったい何をすればよいのか

簡単である
掃除する場所の特質を
理解させ
後はどれくらいの時間と労力が必要かやってみればよい

きれいにならなかったら
原因を考えればよい
人手が足らないのか
時間が足らないのか
道具が不適切なのか

そこを考えさせればよい

そうすれば次の日の掃除は能率よくなる
日を重ねるごとによくなる

時間に余裕があるなら
もっと汚れているところはないか
探せばよい

それが一週間続いたら
次の週
教師は何も言わなくても
掃除は能率よく進む

先生方
ついつい手を出していませんか
ついつい口やかましくしてませんか
そろそろ生徒に任せてはどうですか
信じましょうよ生徒たちを
如何ですか

言ったところで

言ったところで

この言葉の背後には

相手に対する
完全否定が存在している

まず否定

否定からは
何も生まれない

ただ
エゴイズムに
翻弄されているだけ

心は感情でできている

心は感情でできている

その感情は
時として
人間を支配し
弄び
自戒の嵐の中へ人間を引きずり込んでしまう

それだけでなく
往々にして
他人の心を
攻撃し
破壊して
怒りの感情をあぶりだす

その購いとして
争いを産み

争いは
何も生み出さない

生み出さないどころか
互いの心を喪失させて

後には何も残らない

後悔さえも
例外ではない

人間の心は感情でできている

言い訳をしてはならない

まずは駄洒落から

言い訳をしていいわけないでしょ。

言い訳を最初にしてしまうと、相手は怒りを感じる。

クレーム対応の定石である。

昨今
メディアにさらされる様々な企業や団体が
言い訳をしたために、逆に怒りを与えてしまい
失敗を繰り返してしまう状況を見る。

要するに
「しでかしてしまった。」のである。

真摯に受け止め
謝罪をし
今後の見通しを示したことによって
絶賛を浴びることになった実例もたくさんある。

要するに
「やるねぇ。」である。

学校という組織も同様である。

生徒や保護者、地域に対して
言い訳をすると
怒りの感情しか生まない。

要するに
「やっぱりそうなんだ。」である。

結論
リスクマネジメントに習え!

言い訳していいわけないです。
よね。

教師はサービス業

教師は
教育というサービスを提供する
サービス業である。

お客様は
生徒と保護者

顧客満足度を高めないと
このビジネスは崩壊する。

こびへつらう訳でもなく
孤高の人となる訳でもなく

ひたすら
サービスの質を
高めるための努力をし続ける
プロフェッショナルである。

この考え方が間違っていると思われる先生方
挙手してください。

黒く汚れたぞうきん

黒く汚れたぞうきんが干してある

黒く汚れたぞうきんが干してある

黒く汚れたぞうきんが

汚れた床を拭いたから
真っ黒に汚れてしまった

汚れた階段拭いたから
真っ黒に汚れちまった

ぞうきんは黒くなる
使うたんびに黒くなる
しだいしだいに黒くなる

汚れちまったぞうきんは
拭き手のひらを黒く染め

洗われることなく
乾いては

汚れちまったぞうきんに
心を痛める者もなく

再び水を含み込み
拭き手のひらを染めていく

汚れちまったぞうきんと
時すら答えを出せぬまま
全ては黒く染まりゆく

いとわろし

詠み人知らず

慣例の行事は本当に意味があるのか

「例年通りで。」
「また今年もよろしく。」
「では、来年も引き続き」

このような理由で継続されている行事はありませんか。

確かに、例年通りは楽ではある。
今や、行事の関連文書はファイル化されて
日付だけ書き換えれば、どうにかはなる。

「去年はどうでしたか。」
「それは去年のファイルを見れば。」

いたって楽である。
何も考える必要が無いので。

かつてはたくさんの行事が行われていた。
有意義なものもたくさんあった。

しかし、あるときから叫ばれ始めたのが

行事の精選

その名の下に、たくさんの行事が消えていった。
有意義かどうかはあまり議論されず
これはしないわけにはいかないだろうという
選択肢から残った行事が現在行われている。

当然、それらは生徒を育てるのに有意義なことが多く
そのことを通じて集団が成長していくことも明らかである。

そこまで否定するつもりはない。

ただ思うのは
教師も生徒もみんな辛い思いをしながら、
そこに意義をみいだせないまま続いている行事もある。

それにピリオドを打つのはいったい誰なのだろう。

民主主義の国であるならば、全ての意見を聞いた上で
聞いた上で
聞いた上で

とりやめるべきではないですか!

勉強しないと嘆いていませんか

学校では年に数回標準テストが行われるようになった

「学力向上」
国をあげての課題だそうだ

ゆとりの次は学力向上

どうもそれが教師に求められる急務らしい

そのテストの結果が返ってくる

その時にどう捉えていますか

「今回は問題が難しかったから」
「こんな問題に答えさせること自体問題だ」
「全くこの子どもたちは勉強しないから」

ふと思う

教師は教育のプロである
標準テストの結果がどうであれ
その結果をどう活かすかが課題であって
問題のせいでもなければ、まして子どもたちのせいでもない

結局自分の指導力不足を振り返りもせず
勝手に曲解しているだけである

「この子たちは本当に勉強しない」
だったら、勉強するような授業をするのが
プロとしての職務だろう

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