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慣例の行事は本当に意味があるのか

「例年通りで。」
「また今年もよろしく。」
「では、来年も引き続き」

このような理由で継続されている行事はありませんか。

確かに、例年通りは楽ではある。
今や、行事の関連文書はファイル化されて
日付だけ書き換えれば、どうにかはなる。

「去年はどうでしたか。」
「それは去年のファイルを見れば。」

いたって楽である。
何も考える必要が無いので。

かつてはたくさんの行事が行われていた。
有意義なものもたくさんあった。

しかし、あるときから叫ばれ始めたのが

行事の精選

その名の下に、たくさんの行事が消えていった。
有意義かどうかはあまり議論されず
これはしないわけにはいかないだろうという
選択肢から残った行事が現在行われている。

当然、それらは生徒を育てるのに有意義なことが多く
そのことを通じて集団が成長していくことも明らかである。

そこまで否定するつもりはない。

ただ思うのは
教師も生徒もみんな辛い思いをしながら、
そこに意義をみいだせないまま続いている行事もある。

それにピリオドを打つのはいったい誰なのだろう。

民主主義の国であるならば、全ての意見を聞いた上で
聞いた上で
聞いた上で

とりやめるべきではないですか!

勉強しないと嘆いていませんか

学校では年に数回標準テストが行われるようになった

「学力向上」
国をあげての課題だそうだ

ゆとりの次は学力向上

どうもそれが教師に求められる急務らしい

そのテストの結果が返ってくる

その時にどう捉えていますか

「今回は問題が難しかったから」
「こんな問題に答えさせること自体問題だ」
「全くこの子どもたちは勉強しないから」

ふと思う

教師は教育のプロである
標準テストの結果がどうであれ
その結果をどう活かすかが課題であって
問題のせいでもなければ、まして子どもたちのせいでもない

結局自分の指導力不足を振り返りもせず
勝手に曲解しているだけである

「この子たちは本当に勉強しない」
だったら、勉強するような授業をするのが
プロとしての職務だろう

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